能力とかいう幻覚

思うところあって、腕立て伏せ30回を始めた。初めの数日は7回やっては休み、という感じだったが、1週くらいすれば、30回できる。20代の前半で、腕立て伏せが30回できないで困った記憶はない。しかし、ここ数年関心がそれていたために、過去にできたことができなくなっていたのだ。

子供の時、一度は習得したかに見えることがあっという間に、自分のものではなくなることがだれしもある。一方で、一度乗れるようになった自転車に、久しぶりに乗ると乗れないということはない。純粋な筋力のようなものと、平衡感覚というようなものでは、何か記憶のしくみが違うのだろうか。

二つの教訓が混じっているので、整理したい:
・毎日続けると、体がなじんで、できかなったことができるようになるということ
・しばらくやっていないと、できるものもできなくなるということ

一方で、しばらくやっていなくても、やればすぐにできるような種類の物事が、どうもあるのではないか。

そして、思う。私よりも能力のある人から見たら、「なに、腕立てができないとか、寝ぼけたこと言ってんだろう」ということであっても、本人は至極必死である。自転車が乗れない人からすれば、「なぜ、自転車なんてのれるのか、そもそもわかんないのに、しばらく乗ってなくても、すんなり乗れるなんて超人!」ってことになる。

ひとそれぞれができること(能力)なんてのは、確かに相対的にその度合いを測れてしまうことだから、競技ってのが成り立つし、それで評価のようなものが決まってくるところがある。しかし、上のようなこんがらがり方をしだすと、相対的なできふできの事柄には、さして大きな意味が感じられないか、むしろ非人道的なことにも思えてくる。できないからと言って、そのことで誹謗中傷することは忌むべきことに思え、能力の差で競争することを否定するような極論に達してしまいそうだ・・・

個人として、昨日よりも今日の能力をすこしでも高めるということに精力を使いたい。それが、人としては、全うな行いに思えるし、上のような虚無から逃れるためなのだ。そして、自転車に乗るように、屈託なく颯爽と人生をやり過ごせたらさぞよかろうに。


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Commented by あんず at 2016-09-18 11:00 x
運動は良いですね。一瞬であってもあらゆるものから解放されて自分と向き合える時間が得られます。パラリンピック、熱いです。一般的に考えられる能力以上の能力、それぞれの機能の限界を超えているのではないか?と思う程の身体機能を出すために日々努力されている姿が伝わってきます。
ニュースでパラの意味を知りました。

日々積み重ねていきたいですね。ありがとうございます。
by khosok | 2016-09-11 16:44 | Comments(1)