ともに歩む、進路

千日回峰行者に毎朝軒先にお茶が差し出されるという。森の道の話、修行というイメージの中では、一人なんだけれど、たとえ修行であっても、多くの人に支えられてともに歩むというものだという。

俗世、在野に生きるものは、なおさら多くの他者との関係の中で、進路をとっていく。配偶者を持つものは、その同意のもとでないと進路は気持ちよく設定できないし、無理は後にたたる。

医師の留学、転職、転勤、それぞれの選択において、多くの人の助言とか綱引きとか、具体的な束縛とか、暗黙の雰囲気とか、いろんなものが影響をしているのだが、ひととおり情報を集約して、自分の大事にする物事を選び取るようなプロセスとともに、進路という具体的な選択をすることになる。そうして、いくら隠そうにも、選択結果は、彼が何を重んじたかをのちに示すことにもなってくる。

表面的に他人は世間話をして、あいつは出世欲が強いとか、金欲が勝るとか、上司に頭が上がらないとか、まあ、勝手なことを言い合っている。噂しあって楽しんでいる、うらやみみとか、さげすみとか、そういう面もあるかもしれない。ただ、選択の決断は、そんな単純なものではないと信じたい。さまざまな屈託の末に、進路の選択を自分では取れずに鬱屈している多くの社会人人日の人々の中で、意を決して舵切をしている人たちの心のうちまで、他人にわかるだろうか。

今の世の中、終身雇用みたいないものを信じられるほど安心できる状態とは感じていない。自分でそれなりの判断をして舵切をしていかないといけない要素が高まっていると思う。職の選択の可能性が、村や町から、国や世界に広がって、種類も多様となった。ひとりで判断するには、相当たいへんで複雑だ。それがゆえに、同行二人、ともに歩んでくれる人たちと、協力し合意し認め合い、そして、より良き方向へ舵をきって、生活をつづけるということになる。

人は一人で歩んではいない、ということを、再確認している。


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by khosok | 2017-02-25 11:32 | Comments(0)