匂いを感じ・・・

東京も桜が咲き始めました。

東京で暮らし始めて1年半になりますが、未だに駅を降り間違えます。今朝も、東京駅で降りるべきところを神田でおりました。・・・この大都会にはどこか没個性的なところがあって、駅の違いが乏しいのが理由だ・・・田舎では駅の前に広がる風景に決定的な違いがあるから間違えることなどありえないのだが・・・といっても、誰も同感してはくれないでしょう。駅それぞれにある直感的な匂いみたいなものは、当然異なっているのですが。

匂いを感じる、という意味でいうと、自分としては決して鈍感だとは思っていなません。匂いは単にその感じとられるケミカルな物質の差異の識別感覚であるだけではなく、快・不快という感情と直結し、またこれが結果行動にも影響しているということを脳科学が示している、そう理解しています。匂いとしてひかれるものに、近づいてしまう、気づくいているか、認識しているかは別として、結果としての行動が、匂いに支配されているかもしれない、ということだと。

結果行動の社会生活として、私が好むことは、反権力、反全体主義、独り考えることと整理できます。昭和一桁生まれの私の父は「人のしないことを仕事に選べ」と言い、学童疎開をせず大阪大空襲で逃げまどった経験を持つ世代の私の母は共産党に投票していました。1970年代世代として、京都にて戦後民主主義の教育、日教組、同和教育を基本とし、学校外のいわゆる塾においては戦争を知る世代、全共闘世代から教育を受け、怠惰、倦怠、退廃主義、虚無などを乗り越えて、仏教的な勤めと厳しさを信条とするようになっていきました。

そして、これまでの受験、恋愛または家に関わる失敗や成功の振り返りと日々の社会生活での経験を通じて、仏教的な信条ーたとえば、うそは言わないようにしましょう、とか、日課は怠らないようにしましょうとかーは、自分にとってとても大切なことだと思っていますし、また、同時に、他者に対する寛容のこころーたとえば、人はうそを言うことだってあるし、日課ができないこともあるとかーが、ますます強まっていきます。仏教的な匂いがするものに、近づいて行ってしまう、そういうことだと思います。

人の中には、権力の匂いに、また実際に権力の中枢に近づいて行く人がいます。私はその匂いが苦手です。私は、列にならびなさい、列から外れてはいけません、それで列の先頭でなくてもいいけれど、列の中でおでこぐらいはだしなさい、でも頭は出してはいけまん、みたいな教育の中で、キュウキュウとしながらしかし安全を確保し、しかし、休憩!列をみだしてよし、との号令がかかれば、独り黙々と一輪車に乗り続けるような、そんな小学生であり、その状態が、今も心地よいのです。列の前に立って列に向かって号令をする人になりたいとは思わない。

街々に、桜並木、桜のトンネル、桜の用水路で、整然としかし個性的にさまざま桜が咲きます。その中に、なんとも言えずひときわ目立つ桜があり、なぜか人が集まってくる。そんな桜があるものです。何が違うのか、言葉にはできない、何か「匂い」が、違うのでしょう。そして、この桜にも、盛衰と寿命があります。嗚呼・・・

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ

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by khosok | 2017-04-01 11:02 | Comments(0)