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台風の通過と過去のこと

自分や周りで起こる変化は、歴史の視点で未来から振り返ると、過去の一点の記録でしかない。

職場の机に出版社からの贈呈書が載っており、見ると過去の職場にいるときに分担執筆したものであった。出版社が私を探り当てて、現職にとどけていただいたようだ。過去の職場の役職名が、しっかり載っていた。これとは別に、最近、8年くらい前に分担執筆した書籍の第4訂を作るから、現職の役職を教えてくれというような質問を受けた。つまり、改訂版では、所属を今のものに変えるということのようだ。ここで、なぜか、過去が今に塗り替えられるような陰湿な違和感を感じた。

過去は過去として、そのままでとどめ置かれて受け入れられていくのもよい。「日本の路地を旅する(上原善広)」を読み返している。この人がなかなか含みがある感じがしていて、大学時代に、中上健次を読みふけって、私自身も放浪僧にでもなるべき身かと思い込んだことが懐かしい。過去は塗り替えられたらそれはそれで変化なのだけれど、例えば出生のことを隠すことには、それなりになんとなく陰湿な違和感の残る消滅でもある。

だから、所属を変えて違う職場に就いて、そこから過去の職場を見ることを拒んでもいけないし、隠してもいけないというような思いに至る。事実として、その職場に就いた初日の緊張と興奮のような気分を大切にとっておきたい。それぞれの職場が私という人格を暖かく包み、慰め時には叱り、成長をはぐくんだのだ。

私は頻繁に職場を変えている。それぞれの転職でそれぞれ精いっぱいなんとか未来と将来を考えて、できるだけのことをやろうとあくせくしているだけで、実に全体を統合してめざすべきビジョンには欠けている。自分の将来像は、蝉のなく森を歩く放浪僧に似て、ただ次の庵において、経でもよんで、経は蝉の声に溶け込んで、終に身はコケにでも変わるというようなものだ。

台風が来ている、これも、個々人の思い出の中では永遠ともいうべき深みを持った何かの到来であることもあるし、全く覚えてもいられない放浪僧の通過にすぎないかもしれない。

by khosok | 2017-10-22 10:35 | Trackback | Comments(0)

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