たのしむゎ 麻酔と集中治療の界隈を歩む医師のブログ
2024-03-17T10:04:53+09:00
khosok
麻酔集中治療医のブログ。海外留学、行政、救命センター勤務経験あり。今はすこしの教育と研究を手掛けます。
Excite Blog
Uターンをしやすい組織
http://anesthfow.exblog.jp/242113003/
2024-03-17T10:04:00+09:00
2024-03-17T10:04:53+09:00
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khosok
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https://www.igaku-shoin.co.jp/application/files/7817/0953/0242/3557.pdf
全国で、研修や医学教育が標準化されることは、いい面もあるだろうなあ。
人がいないとできないことではなくて、当たり前のことをやりつづけること
たとえば、教えて、フィードバックして、教える側も、まなぶこと。
福井に来て3年たって、教育に関わる機会が少しずつ増えています。同学の教員も会議でいっていましたが、
どうやって福井に医師を残すのか、医師として福井に残ってもらえる教育をしないといけないと。
しかし、この発言をした教員も、大阪や海外にいたひとで、
私も、京都や広島とか、東京とか、海外にもいました。
そんなひとが、福井に残って!、って言っても説得力はない。
やっぱり若いうちは都会や別の土地でめいいっぱい刺激を受けた方がいいと素直に思う。
たとえ、研修が標準化されていても、刺激の量は違うという実感はある。
東京にいる友達(看護師)が、東京芸大の文化祭に言ってたのしそうだけど、
そういう刺激の頻度と強さは、都会の方が絶対に大きい。
築地の魚の方がうまいかもしれない。
しかし、和歌山の地元の人の選りすぐりのみかんは、そこでしかたべられない。
もぎたてのとまとのおいしさを築地ではきっと味わえない。
その中で私として今思っていることは、Uターン、Iターン、Jターンをしやすい組織であること。
ひとしきり都会で頑張ったあと、ああ、やっぱりもどってみよっか、
ふくいって、じみにすごいんだし
そんなときに、でも、きっともどっても不幸しかないよね、と思われないような形でありたい。
こちらにはこちらの苦労はあるけど、都会の方がずっと苦労は多いよ、
やっぱり、もどってよかったと思える、
そんな場所であればいいんだろうと思う。戻りたいときに戻れる場があればいい。
無理をして、都会の真似をしようとしても、底が知れるし
新幹線も通ってストロー現象も気になるし。
結局、福井で育ったわけではないので、結局よそもんがいうことなんだけど、
宮津で3年働いて、福井で3年はたらいて、同じような愛情みたいなものがある。
宮津は家族のゆかりがあった。福井は父の繊維関係の仕事で教え子の就職先が多かった。
いろんな関わりは、あるといえばあるので、そんなよそもんとさげすまれるほどでもないでしょ。
大阪ではたらく福井育ちのひと、京都ではたらく福井育ちのひと、
集中治療や麻酔をやっている人を何人も知っているのだけれど
そんな人たちも、ふくいをでたことに、ちいさなもうしわけなさが、あって
機会と何らかのエネルギーがあれば、戻ってきても別にいいかなと思うんだとおもう。
そのときに、まあいっかと思える場で、あればいいと思う。
よそもんの私が、3年前に福井に来た時、そして、
数か月、数年と時が経ってくるなかで、振り返ると気づかされる、
入るときのストレスが、すこしでも小さいことが、
戻ってきやすいということに大きく関連しそうだ。
そのためには、当たり前のことを当たり前にやっておくこと。
一方で、都会ではしがらみでできないが、当たり前のことをやっておくこと。
そういうことが、大事かもしれない。
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批判を受ける場にもっていく
http://anesthfow.exblog.jp/242107525/
2024-03-09T06:30:00+09:00
2024-03-09T06:30:07+09:00
2024-03-09T06:30:07+09:00
khosok
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他にもいろいろ独りよがりかもしれない行為は行ってきた。良かれと思ってやってきた。それが他人に批判されることで、他人に評価されることで、改善できたり、逆に終了できたりする。仲良しクラブでみんなでほめあっていてはだめなのだ。そして、場合によって引き際を知る。
専門外の本を読んだり、新しい人としゃべったり、時には意見の異なる人の意見に耳を傾けたりすることで、すべてが自分を批判する原料資料になる。そうして高々あと15年もしたら一線では働かなくなるわけで、次の世代にできるだけ多くのことが引き継げたらいい。
医療者として生きる上で、なぜ、教育が大事なのか、なぜ、皆で話すことが大事なのか、なぜ、自己批判することが大事なのか、自己相対化が大事なのか、社会の中で医療をとらえることが大事なのか、基礎医学の振り返り学習が必要なのか、学会発表が大事なのか、発表で終わらせずに文字化して発刊することが大事なのか。こうした自分として大事と思わされてきたことが、またそれぞれが批判の対象となったとき、やはり、いろいろ批判されても絶対に大事だと言い切れることが残ってきた。自己批判を繰り返し、結局残ることは、どんなに忙しくても1年に1度は学会で批判を受け、それを発刊するように努力すること、あるいは、その逆に発刊することを再度学会などで発表して批判を受けること。その軸の中に、教育関連の発刊と発表があってもいいということに改めて気づかされた。
私は学部教育は大学病院医療職兼教員の雑務とは思っておらず自己成長のツールだと思ってきたが、それを改めて言語で聞いて、なんとなくうれしいというか、元気づけられた。そして、臨床実習を実りあるものにするには、実習の少人数化が必要で、そのために一般病院にいても力強く教育をする必要がある。自分自身や自分の愛する人たちのこれまでの活動はこの文脈でまともだったと振り返る。教育エフォートを昇進や評価の対象にしたい、それをインセンティブにしないと、研究論文重視の昇進システムから教育はないがしろにされがちだ、という視点も、もっともだとも思う。私一人でできることは限られる。仲間を広げながら、同時に自己批判を繰り返しながら、この分野での巨人の肩の上に立つ人が生まれるように、そうあれば私はうれしい。
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うそを言わないといけない職業
http://anesthfow.exblog.jp/242087943/
2024-02-11T11:57:00+09:00
2024-02-11T11:57:22+09:00
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khosok
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私が20歳くらいの時に、親類の不幸があり40代半ばのいとこが、あの医者は目をみてはなさない(だから、信用できない)というようなことをいった。心に残る言葉であって、これから20年以上たって、私も20年医者やその周辺にいて、医療の上でひとと話す場合、ウソをいうなどの信頼を欠く行為をできる限り排除して生きてきた。私はまだ経験が浅いので上司に聞いてみます、現在の医療の水準では分からないとされています、教科書に載っているような有名なものはありませんが、などだ。不思議なことに、分からないようなことをやってんのかよ!と怒られたことはない。全身麻酔のメカニズムは分かっていないし、アセトアミノフェンの作用部位もわかっていない。
記憶についても、多忙の中で無意識的にそうしてしまった可能性をみなが肯定する。医療安全の審査や評価をしていても、記憶について特に問い詰められるようなことはない、個人を問い詰めることも基本的にない。記憶にございません、という言い方に、正直なウソがない、と、皆が思いやすい。そうでない職業はある。文字に残そうという文化の職業もある。医療で文字に残っていることは、大きいのだが、文字に残っていない大量の判断領域が横たわっているのも事実だ。
医療の中には、官僚的な要素と、軍隊的な要素が、入り混じっていると思っている。組織で決めたことを変わらず変えずに実行していく能力が高い面がある。また、上官の命令は絶対で逆らうことは就労に関わるというような面もある。比較的自由な校風の進学校である高等学校から医学部に進学する人たちも多く、そういう人たちは逆に軍隊的な要素に夢と希望を見出す場合がある。この逆説をこれまでも面白く見てきた。上官のウソや虚構をみなでかばう組織風土は、自由な校風のキリスト教系進学校で思春期を過ごした者たちの一部に、逆説的な安堵と同時に権力欲を芽生えさせる。
一般では評判にはウソが含まれることが多いのだが、医療界の平時にささやかれている評判にはそれほどウソはなさそうに思う。こうした評判は業務上のリスク回避に使われており、別にそのうわさ自体がおもしろいということではなく、業務上のかばい合い、サポートが患者利益に関連するという軸でのことだ。選挙など平時以外の評判は悪意や別の意図があるので、その目で見ておけばいい。情報には常に目的があるというのは、私の信念だ。平時はリスク回避のための評判であるし、病院が変わるごとに評判が若干修正されていく、外病院から帰ってきて丸くなったよね、などの評の変化はよく聞く話だ。
将来予測について、現代の医療知識について、過去の記憶について、組織のルールについて、評判とか人物評価について、ウソをつく必要がある組織や職業はあると思う。医療の世界はミクロで見ると、こうしたウソがすくなく、あるいはほとんど必要ない仕事ができているように思う。背景として善人がおおい。だから、小さなウソが気になりすぎるのかもしれないし、他業種のウソや隠ぺいがとても気になるのかもしれない。そういうことが、47歳を目前にしてうすらと気づきだしてきた。
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ともぐい
http://anesthfow.exblog.jp/242063852/
2024-01-24T22:51:00+09:00
2024-01-24T23:06:20+09:00
2024-01-24T22:51:19+09:00
khosok
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力強く人らしく生きていたい、そう感じた。
人の世で生きるのが人の性だ。ただ純粋に本来は人も含めて動物は何かを殺し食らう。
殺し合うその時、目と目が合い、お互いの生を確認する。
殺し合うことが生の確認だ。のんきに草でもはんでいるような生でも、死を前にして挑んでくる殺ろし生き残る側の生を実感して、自分が生きている実感が生まれる。生き延びた実感か、殺されゆく実感か、いずれも、生の実感だ。
いろんな感情が入り混じって、濃厚な生と生をぶつけあうことで、お互いの死を確認することで、その反動としての生がある。
この本の最後は、しみじみする。「熔ける」の井川意高さんがyoutubeで言っていたが、人間なんて、死んだらただの生ごみ、確かにそうなんだが、すさまじい生と生の戦いのことなど、そこにあった死の確認が、全くの無意味なものではなく何かの痕跡によりその生とその周囲をしみじみと感じる。その想像が、自分の生を確かなものとして肯定する。
たまたま歎異抄の解説本「「歎異抄」講義(阿満利麿)」を読んでおり、自己中心の尺度を振り回して生きているが、それでは生ききれないことがおこったとき、自分中心の尺度に気づくことを「回心」という一節に立ち止まっており、世界から自分をみることができるようになること、視点が180度変わることが回心だという。
すさまじい経験の中で視点をこちらとあちらの両方に置くことで、より濃密な経験となることが、殺し殺される者同士が見つめあう最期の瞬間で理解できる。これが生きるということなのだと深くおもう。
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資本主義のドグマ解体
http://anesthfow.exblog.jp/242035136/
2023-12-31T16:29:00+09:00
2023-12-31T16:29:39+09:00
2023-12-31T16:29:39+09:00
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資本主義のドグマが諸悪の根源にある、成長主義が問題だ、「資本主義の次に来る世界(LESS IS MORE, Jason Hickel、野中香方子訳)」を読んでなんだかとてもほっとした。GDPのような指標のもとでの成長を強烈に推し進めるしか道のない資本家たちに一般人や自然や環境はむしばまれた。地に足のついたアニミズム的な生を取り戻すには多くを失うことだ。謙虚に日々を一生懸命、だれかのため、みなのため、まわりのためを思って生きていくことは間違ってない、新自由主義に至るまでの思想の歴史を整理する上で、2023年に読んだ本の中で一番勉強になったと思う。
そうだ、自分の属する社会や自分が学んできたドグマについて、根本的に批判的に吟味して疑問や問題を整理する作業はとても有意義でほっとする。自分の歩んできたわだちから抜け出る勇気と努力が私を救う。ただし、エコロジカルでアニミズム的に感謝を示しながら生きるということはわかるが、これだけ複雑に入り組んでしまった現代社会にやはり具体的に何から手を付けたらいいのかわからない。
戦争なんてしなくていい、って頭ではわかっているけど、銃は構え続けないといけないみたいな、怖さが現実社会にはある。脱成長で豊かだとは、今の自分も思うところだが、こころが強くあり続けられないと、貯金の多さとか高級外車に乗っていることとか、他人と比較して裕福であることでじぶんのこころの豊かさを評価するような短絡に陥りそうだ。自分として豊かだと思われればそれで十分だとはなかなか一般には受け入れにくく満足感につながらないのではないだろうか。
「スピノザの診療室(夏川草介)」はなんだか京都のことがいっぱい出てきて懐かしいというか本当に原田病院っていう病院あるんだけど、って感じですぐよこの現実みたいに読んだ。違う生き方をする人にもそっと手を差し伸べたりして生きていきたい。そこにはプロフェッショナルとしての愛というか当然の生きざまがある。これはほんとうにそう思う。
この世界に生きてこの世界のドグマにのっとって生きることが一つの生き方なのだけれど、わだちから抜けて問題を整理することは、そういう整理にひとりでも多くの人が参加することが、世界の破滅を阻止する第一歩なのだが、こちらも、なかなか現実何から手を付けるのかわからない。
この休みにもう一冊、「宗教の起源 私たちにはなぜ<神>が必要だったのか(ロビン・ダンバー、How religion evolved: And why it endures, Robin Bunbar、長谷川眞理子解説、小田哲訳)」がよめるだろうか。
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自分の幸せのようなものを考えることはもうない
http://anesthfow.exblog.jp/242033571/
2023-12-29T15:22:00+09:00
2023-12-29T15:22:03+09:00
2023-12-29T15:22:03+09:00
khosok
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逆に言うとこれ以上に他人から見て幸せなことが私の身に降りかかっても、それほど幸せだという感じは増えないような気もするし、不幸に見えるようなことがおこっても幸せな量が減るということはない気がする。自分として幸せだなあという感覚に10段階評価でいくら、というようなことを考えにくい。逆に生きている以上、幸せ以外の状態(不幸だと自覚するとき)は長くは続かない気がする。不幸と思いながら生きていた青年自体をやり過ごした結果として、壮年に不幸だと思い続ける時間は数カ月が限度に思う。それ以上は体がもたないから、きっと幸せという状況に自分が変わる。その結果、一年のうち半年以上は幸せに感じているし、その期間は振り返って考えるとほぼ一年、いい年だった、という感覚にすりかわって認識される。
周りの状況や自分のおかれた状況がベターではあれ、ベストということはきっとない。夢が実現したとかいって浮かれる期間は短時間であって、すべて通過点だ。逆に周りから見て不幸な状況になったとしても、それも通過点だ。一年を振り返るときっと幸せだと思い返すことになる。
さて2024年もさまざまな選択を迫られ、基本的には理知的に判断を下すのだろうけれど、しかしその選択の背後には九星気学とか直感とか好き好みとかそういうことが作用するのだろう。知性が判断を迷わし、情が判断を迷わし、直感と好き好みが修正する。九星気学が後押しする。そんな感じで、来年もまがりくねった人生の通過点を通過しよう。
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その業界の常識に
http://anesthfow.exblog.jp/242006739/
2023-12-10T14:13:00+09:00
2023-12-10T14:13:37+09:00
2023-12-10T14:13:37+09:00
khosok
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その組織の常識が他の価値観や文化のようなものからして異常であることは実際にあって、2023年私の心に刻まれた美男子への性被害、閉鎖的華文化のハラスメントや政治屋の資金集め手法も、その業界ではよく知られた必要悪だったのではないか。
必要悪だと上司から言われ私としては継続して批判している医師の外勤について。医師の働き方改革の労働時間延長特例は、外勤の継続が大きな背景因子になっていると考察しています。外勤を許さず外勤に頼っていないあるいみ健全な病院は働き方や夜勤の方法を変えて多くの場合医師の勤務時間制限に対応可能です。しかし、これまで外勤に医師の収入を依存している組織は、組織的に、地方や不人気な病院や診療所の事業仕分けに援助せず、依存体制維持を選択したのです。医師の労働時間は減少しないので、そうした外勤に派遣される医師の精神衛生が守れませんし、医療の安全に問題が生じえます。アルバイトを許容している病院からしても、医師が外勤に行っているので残された医師に負担がかかるため緊急の対応ができませんということをどのように説明するのでしょうか、また医師としてプロフェッショナルの心は崩壊します。病院としては高収入を保証できないので必要悪という感じでしょうか。逆に外勤に依存して医療している病院や診療所は、背に腹は代えられないという状況ですから外勤の欠乏に大きく反対します。
医師であれどの医療者の精神衛生と豊かな生活は、医療の安全と創造的で前向きな職場の源泉なのですが、無視・黙殺されています。アルバイトを禁止しても、闇バイトが横行するから事態は変わらないのだろうとも現実的な意見ですが、闇での行為に利が生じないか大きなリスクの生じる制度設計は無理ではないはずです。当科は週1回のアルバイトができるので収入面でも問題ない、といううたい文句で若者を勧誘する事態を目にしては、業界の常識と社会の非常識を感じます。長期的には解消しないといけないと思う人は多くあるでしょうが既得権益です。
法改正など大鉈を振るう以外に社会の批判なり過労死問題が生じても変わらないのが組織の常です。社会は複雑だけれど、患者を収容する病院の機能と医療者について、入院する患者を中心に考えれば、主たる治療者が平日日勤に他の病院に外勤に行っているせいで対応が遅れるようなことは喜ばしいはずがないわけです。そんな当たり前のことを当たり前と言えない、問題を先送りし続ける業界に属していることに悲観します。
常識を疑うことを習慣づけられて、その結果として導かれる不合理を長年考えてきて、最近になってだいぶんと冷静に客観的に他の業界と比較しそのうえで悲観するようになっています。私が悲観するのは必然があり、その原因部分が解消されない限りは悲観は消えないのですが、この界隈に生きる限り業界の不条理に付き合っていくというのが、そしてその業界から生活の糧を得ているということ、そしてその業界のとる選択の責任をも同時に背負っているという、きびしい二律背反を生きるわけです。
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支援
http://anesthfow.exblog.jp/241968576/
2023-11-05T14:31:00+09:00
2023-11-05T14:31:34+09:00
2023-11-05T14:31:34+09:00
khosok
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医師になって人道的に問題のある労働が実態としてある状況を看過できぬが何からどのように手を付けたらいいかわからない状況を見てそこに身を置くことにした。十分に日本国内にも必要とされる場があるという感覚だ。都会は勉強したり経験を増やす場だが地方に生活と役割ある仕事がある。
原住民居住区のような場に私の役割を見出したと仮に夢想して、ただ私は原住民ではないし肌の色も違うし同じ苦を知らないというものの今は囲いの外にいる連中に対峙している。囲いの外にいるものと過去は同族であったが大いに嫌悪しておりたまに会ったら笑顔は示すが考え方が異なりなじめない。小さないざこざだったはずの闘いが居住区全体の存続を危ぶむ事態に発展してしまい、しかし居住区の人たちとのくらしを愛して、もしかしたらこの居住区と心中するかもしれないがそれも人生かもしれない・・・
ひとの文化は著しく発展しているが、なぜ大規模な殺人を行うようになったのだろうか。「人間性の進化的起源: なぜヒトだけが複雑な文化を創造できたのか(Kevin Laland, 豊川航(訳)」を読み始めた。面白い。しかし、戦争が悲しい。日赤の献血で「Dialogue on Nuclear Weapons, 赤十字に残る、核兵器と向き合った者の「言葉」」という小冊子を見つけて広島に暮らしたことはいい経験だったと思い返す。
私の知らないところで支援を必要としている人たちがいると思う。共に暮らしながらそこで私としての役割を果たせる実感は何事にもかえがたい生きる意味だ。
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敗者
http://anesthfow.exblog.jp/241962238/
2023-10-27T20:32:00+09:00
2023-10-27T20:32:31+09:00
2023-10-27T20:32:31+09:00
khosok
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足が不自由なこととひとなみに歩けることとは単なる差異であって、人並みに歩けることが優性かどうかとか考えると何か変なことが起きそうでこわい。ほら、足が不自由だとなると、その理由を考えたり原因を探って解決しようとする発想が生じるにもかかわらず、ひとなみに歩けることの理由を考えることをしないじゃないか。
勝つことと負けることを考えると、なぜ勝てるのか、なぜ負けるのか、その両方の理由を考えることになる。この際、勝つこともなく、負けることもないような状態が、もっともらくちんであり、だれからも批判もさげすみもねたみもうらやましがられることもなにもない、そういう勝ちも負けもしない状態を、志向することはおさまりがわるいのだろうか。
勝つことも、負けることも、勝ちも負けもしないことも、あるいは、勝ちそうな予感がしている高揚も、負けそうな不安も、すべて、単なる差異の問題であって、そこに若干の因果はあるがそれ自体がその人やその状況における優位性でも劣勢でもないのではないか。その時々に、ただそうある、というだけだ。勝つことを常に志向する必要もなく、負けることをそれほど忌避することもない、ただ、歩きにくそうなひとと上手に歩く人とがそこにいるというだけのことだ。
そこに一つのゲームがあって敗者が決まるということがあり、その敗者をみて愛し共に歩みその歩みがじぶんの生きざまだということもある。勝者があしばやにその場からさっていくことはまたその勝者の生きざまであるだけで差異のみが残る。勝者をはずかしがることもないし、敗者をうしろめたくかなしむこともない。
ただ目の前の一歩一歩の歩みが自分であってそれしか自分を保つものはない。ただ自分のまわりに無数の差異があるだけだ。
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残業を再考する
http://anesthfow.exblog.jp/241955123/
2023-10-18T06:14:00+09:00
2023-10-18T06:14:51+09:00
2023-10-18T06:14:51+09:00
khosok
未分類
労働者がだれかに雇われている場合は、酷使という現象が生じる。純粋な自由な意志で働くというのではなく、なんらかの強制力や契約があって、労働の時間と対価の関係が生じる。閉鎖的で固定化した会社や組織に属すると、暗黙の力のために、労働の対価の選択の自由がいちじるしく損なわれる。
閉鎖的な職場で職業を固定化させると、やめても次の職がない。やめることにリスクが大きすぎる。そういう職場を選んでいること自体の宿命でもあり、その弱みにつけこむ使役側は無理な労働条件を提示することができる。この循環は強固になり、やめることのリスクを職場自体が強調することで、さらに過酷な労働条件を提示できる構造になっていく。
宿命を受け入れ、労働と苦悩を受け入れることで、マゾヒスティックな安定をえることもできる。こころが破綻する前に動物としての寿命を迎えることで、組織は維持される。組織が崩壊するよりも早く各構成者の寿命が終わることが期待されているという気分にもひたれる。組織の中枢で組織を動かしているひとたちのなかに、同様の達観がある場合、責任感を欠いた事大主義が組織の改革を阻害するだろう。
残業というものは、そうした実情を国家的に規制することによって、組織や社会全体の崩壊と破綻を防ぐことが目的だろうと思われる。労働基準法の冒頭を繰り返し読んでみよう。
第一条 労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。
② この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。
人たるに値する生活という文言は、きわめて哲学的だ。宿命を受け入れ、事大主義的に事を荒立てず、組織の維持や管理を旨として生きることも、人の生活そのものではないか。高い倫理性と命への尊厳を高めないと、この哲学的な課題を解決した生き生きとした生活は実現しそうにない。
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情報を減らすという利
http://anesthfow.exblog.jp/241937731/
2023-10-01T09:20:00+09:00
2023-10-01T09:20:39+09:00
2023-10-01T09:20:39+09:00
khosok
未分類
現代、自由で開かれた情報を示すことは疑念を持たれにくい。残す情報は開示される可能性の高い情報であり、残したのに開示されない場合、疑念は大きくなる。残らない情報は、なかったことにできることの裏返しだ。残す情報以上に情報はない、という暗黙のルールを構築しやすい構造を持っている。詳細に残せば残すだけ、それ以上には情報がないようにふるまえる可能性が高まる。そこには若干のトリックがある。残していないところに真実があるかもしれず、サスペンスの世界ともいえる。
医療でも大量のデータがあると、あたかもその中に真実があるように勘違いをする。真にほしいデータは、その大量のデータの中に含まれていないことも多く経験する。データを持っているということに権威を持たそうにも、その情報以外の情報が欲しい人たちにはなんの権威でもない。権威は、権威にしがみつき、なんとか手持ちのデータを使おうとするが、分かる人にはその価値がわかる。
一方で、この時代でも、情報を一部の人たちで抱え込むようなことが実際にあり、その場合、そこには真の価値があるようだ。特許や新規の創薬情報などだ。その後その情報がオープンになったときに莫大な利益につながる可能性がある。そこには権力や権威の問題ではない、もっと実利的な問題がある。隠しても、あるいは開示しても、金にならない情報は、この隠す対象にはならないということの裏返しでもある。
では、試験問題の漏洩問題は、どうなのか。実利の問題ではなく、合格という権威付与に関与した問題だ。合格不合格という資格を与える権威が失墜したときに、試験問題の漏洩問題はなくなる。暦を決めるという行為が、神秘的な神格的な権威主義的な問題から、一般則にのっとった科学的に検証可能なことに変わった時とも表現できる。つまり、資格が極めて客観的な指標で科学的に検証可能となったとき、試験問題は、オープンになるし、そこには、権威はなくなる。IQとかMMSEとかいうものは、設問自体はオープンではないか。そういうことが、各種試験であれば、権威はなくなるし、利の問題もなくなる。
真に、大学とは何なのか、大学院とはなんなのか、各種の資格試験とはなんなのか。このあたりに、答えがありそうで、各種の情報とは何の目的で開示されまた秘匿されるのかを知る感性の問題だ。
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自分がこうありたいという造型
http://anesthfow.exblog.jp/241935924/
2023-09-28T20:02:00+09:00
2023-09-28T20:02:59+09:00
2023-09-28T20:02:59+09:00
khosok
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教員と事務系職員が顔を合わせともに学ぶことが必要だということでもよおされている。
最近何かで、学生も自由に選べるなら普通1番のところにいくでしょうよ、というような内容のことを聞いてそうだなあと自然と納得した。2番とか3番とかってのはよっぽどの思いがないと行かないか、おこぼれ的なところになるんだろうという。独自色のようなものがあっても、魅力ってものがあっても、無知であればあるほど、経験が浅ければ浅いほど、その魅力が分からない。わからないものにはいくら説明しても直感的には伝わらない。逆に、それほど魅力がなくても、総花的なことしかやっていないような対象でも、1番なら1番の理由があるんだろうとか解釈してそれを選択することがある。特に見る目がない場合、研究する気力がない時、そもそも興味がない対象では、そうなる。みんなが買ってるものなら間違いないと思いがちだ。
無理筋の宣伝をしても、売れないものは売れない。たいして特徴がなくても、売れており皆がもっているものは売れ続ける。ひとの中に、まだ選んだことがないものを選ぶことへの迷いがある。新しいものへの興味と恐怖が混在している。
選ぶということには傲慢さがある。選ばれるものに対する優位性がある。大学を選ぶという行為について、自分の住む街に大学という学べるところがあってよかった。そこに行って学んでみよう、くらいのことなら、選択ではなく、落第によって整理すればよい。つまり、入学にハードルを作らないければ、もしかしたら競争の原理は弱まるかもしれない。それぞれの独自性がより明瞭に示されるかもしれない。独自でなくても、学べる場であれば、あとはセレンディピティだけかもしれない。
選ばれる大学になろうという場合、大学サイドは劣性にあり、宣伝やうたい文句が必要になる。一方で、それしかないということなら競争の原理は働ないし、学生と大学は対等で、学生は大学に行きたいか行きたくないかのみを単純に評価することになる。どの携帯電話を使うか、確かに選択できる。それぞれに特徴があるが選択できる。選択が多い状況を人間が長く維持するのに、特別な心理やきまりごとが必要なように思われる。誰かが大学の統合を拒んでいる。各都道府県かxxx万人に大学が1つしかないという自主規制のようなものがあるなら、違った世界が待っている。町の寺子屋が2つある状況は何か特別な理由が想像される。普通1つである方がなにか安楽なのだが。
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分かりにくさとウソ
http://anesthfow.exblog.jp/241915242/
2023-08-31T04:52:00+09:00
2023-08-31T04:52:10+09:00
2023-08-31T04:52:10+09:00
khosok
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この時、沈黙は極めて有効に作用するようだ。
それ以外に、分かりにくい言い方をことばを選んでウソがないように調整するということも実際にはあるようにも思う。だんだん、歳が大きくなるに従って正直にいうと、という言い方ができるようになってきたが、なかなか、言葉を濁すということが現実ある。お互いにそれがわかっているから、言いにくい質問はもとから行わない態度となることも多くなる。
相手は知らないと思って、大っぴらにウソをつくことがあるとして、そのウソの効果はこのひとはうそをつく人なんだというウソをついた本人へブーメランとして戻ってきて、結局良かれと思ったウソが本人の信頼を下げることになる。ウソをつくことは損な行為なのだ。まるっきり勘違いしてウソを自信満々に言ってしまうことがある。自分としては気づいたときに真摯に謝りたい。指摘を受けなければ、いつまでもうそつきのままかもしれない。自信をもってしまうことに問題があるのか、よくわからない。指摘されにくい身分や鎧が多くなっているのだろうか。
簡潔に述べるときほど、言葉が他人の中に残りやすいので、ウソが含まれても自分が傷つかない方がいい。慎重に話すこと、間違いを認めること、謙虚であること、沈黙を使うこと、相手のペースにはまらないこと、そういうことを改めて整理して、9月を迎えたい。
秋になると調子に乗ってしまうのではないか、年度末に向けてなにか焦りが生じるのではないか、自律を。
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夏
http://anesthfow.exblog.jp/241899176/
2023-08-15T23:36:00+09:00
2023-08-15T23:36:11+09:00
2023-08-15T23:36:11+09:00
khosok
未分類
きけわだつみのこえ
を高校3年間、愛読していた陰湿な青年時代だった。
ガダルカナル、ブーゲンビル島、インパール、サイパン、硫黄島
オキナワ
特攻
8月6日、ヒロシマ、長崎
満州、731部隊、
8月15日
9月2日
奇子(手塚治虫の漫画)、下山事件
手当たり次第にとは言わないけれど、手に入る本は有名なものは読んできたと思う。
これに、
8月12日(JAL123)
も加わって、夏は陰鬱で怖い。闇に飲み込まれそうだ。
ひとっとびに言うと、
失敗の本質、組織、隣組、相対化、戦後民主主義、村上龍、大江健三郎、オリバーストーン、
法華経、千日回峰行、利他、同調圧力、心理的安全性
そんな思考を25年経てきた。根にあるものは、怖さだ。一体何が怖いのか、抑圧と圧力が怖い。
たぶん、これから生あるかぎり、抑圧に対する怖さから解放されることはないのだろう。
家庭から生まれてから受けた傷だろう。それを自覚し、すこしだけカイホウされた日々をうれしく思う。
抑圧と恐れが今の私の生きる原動力なのだろうとも思うし、そういう恐れがなければ
空虚な生があるような気もするし、解き放たれているというのは幻想かもしれないとも、
夏のしめっぽい思考は回転を続ける。
歩こう。真っ暗の中でも、歩こう。違う風景が見える。
回り続けてもいいんだけど、歩こう。歩いている実感だけが、生だ。
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外野もチーム
http://anesthfow.exblog.jp/241881739/
2023-07-21T22:21:00+09:00
2023-07-21T22:21:59+09:00
2023-07-21T22:21:59+09:00
khosok
未分類
外野って言葉は、どういう意味なんだろうって、立ち止まってしまいました。治療の中心、根幹部分に、確かに麻酔科医はおりません。ピッチャーとキャッチャーの間にはおりません。芝を整備したり、応援席の椅子を拭いたり、チケットを売ったり、駐車場で誘導したり、そんな人もみんな、その試合には欠かせません。
つまり、外野っていう言葉には、それほどいやな意味はなくて、そのゲームの外野を守っているひと、っていう意味なのだろうと思います。
同じ時間を過ごせることに感謝します。名外科医の手術の麻酔をさせていただき、こころが動かされ、その道の専門麻酔科医になろうと思い夢破れた過去があります。ピッチャーや名バッターと同じ空間にいたということだけでも、感動です。ありがたいことです。
いろんな経験ができることはとてもありがたいことです。臨床をしていて、本当にいろんな価値観や考え方を学び、自分も変化していきました。ひとの言葉をどのように理解するか、その言葉の中、態度の中、関係の中に見出すものが、日々変化し、深みを帯びていきます。生きるっていうことはそういうことなんだろうな。
軽々しくチームだと作り笑いで接し続けるよりは、しっかり外野といわれることは、新鮮だし、よりよく考えるきっかけになります。思考は高速で回転しますが、ストレスは受け手側に依存するんだとも思われ、美しさは万物に宿っているような感覚も軽快な運動の結果です。先週末は6時間山を歩き心はすっきりしていることが上の感覚に関係する、つまり受け手側に依存しているということを身をもって実感しております。
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