2017年 04月 16日 ( 1 )

うちに帰ると娘の鉢植えのチューリップの黄色い花が開いていた。

球根を植えるときの大人たちの開花失敗の不安は、子供たちにもそして当のチューリップにも悪影響を与えることなく、自らの自然の成り立ちとして、必然的ともいえる意志でもって花開いた。いくつかの必然的なものごとの組み合わせがあれば、大人たちの不安は何の影響も持ちえない。

いくつかの必然的な事柄が時宜を得て組み合わされば、きのこは傘を開く。きのこをこよなく愛するひとたちもいれば、そうでない人もいるために、きのこが生えないように工夫をこらすひともいれば、きのこを育て日々をくらしているひとたちだっている。どのみち、大人たちの不安は、その介在さえ拒否されるような必然というべき滅亡か結実がある。

チューリップの花弁が落ちて軸が残ってそして次の球根ができるように、物事は、よくよく考えると、繰り返しているものだけが、今の世の中に多く見つけることができるものになっている。永遠の命がないのだから、繰り返さないものは、めったなことがないと今見ることができない。今見ているものは、自分の命にくらべて短いものは、終わりが来るように見えることが必然だし、自分の命に比べて長いものなら、永遠の続くように錯覚を受けるという相対的なものにすぎない。

私という生が、その宿命のようにしてその命の続く間に、例えば、チューリップに水をやったり、きのこをスーパーで買ってきて食したりと、何らかの形で、他の生命に対して決定的な必然となっている。歴史のような視点に逃げ込んで、わが身は、相対的には、はかないなどと考えることは、単なる自分自身への慰めにしかすぎない。

自己の行動を戒め、しっかりと生命の連鎖にくさびをうちこむ痛みを感じながら、生きていくしかない。願わくは正しい必然となって、生命の連鎖にくさびをうちこみつづけたいものだが。

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by khosok | 2017-04-16 20:53 | Comments(0)