快楽は、束縛になり、苦痛になる。
たばこを吸うことが、快楽であり、吸うことが束縛となり、それにとらわれることで、心は狭まり、苦痛が増える。
煙草をやめることによって、この苦痛からの解放が、わかる。やめた人にしかわからない、安楽である。

大都会に住むということは、これに似ている。大都会から地方に移住することで、安楽を得る。

また、たとえ苦痛があろうとも、世のためひとのため、束縛のあることであっても、行っていくことで、快楽につながるということがある。これが、過剰労働であったり、過剰なサービスであって、日本の幸福度を下げることになっている。過剰サービスに一分のマゾヒスティックな快楽があるからだ。一部の人は、おもてなしという用語に置換している。

ありがた迷惑と不親切の間に、しっかりとサービスが収まることは、現実問題ありえないのにもかかわらず。

昭和、半数以上の大人がたばこをすって、社会を、さまざまな束縛の中で、目的論的に歩んでゆき、そして、安楽を、どこかに置き忘れたまま、彼らの子供は、ヴァーチャルなゲームの世界に没頭していった。

大都会には、その深い深い苦痛がこってりとつもりつもって、一歩足を踏み入れると、その深みにはまってしまって、快楽を味わい続けてしまう。

安楽とは、やはり失うことからはじまるということだなあ。

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by khosok | 2017-03-25 16:49 | Comments(0)

ここで何をするのか

欧米の留学先を決める、あるいは面接を受ける際に注意すべきこととして、学んだことであるが、先方の人事担当者が、「あなたにとって、ここの場が何かあなたの将来のためになるのか」という質問に答えられるかが重要といわれる。欧米の知識人にとっては、放浪者や門外漢を受け入れる慈善行為は公に異を唱えるすべきことではないわけだが、自分として与えられるものが何かあって、その与えられるものが、求める者が欲することに合致していない場合は、慈善行為が成立しないととらえられる。だから、あなたが求めるものが何かを知り、それを与えられるかどうかに興味が集中することになる。

アジア的な発想では、目的や事象ごとの欲求を明確化せず、場とか空気とか仲間意識みたいなもので、取り囲んで「時」のような包括的な思い出を重視することが多いと感じている。私の場合も、その例にもれず、転職・転勤を繰り返しながら、場の空気感や思い出以外の本来の目的や意義を忘れがちなところがある。

国語が苦手でありながら、鍛錬のため文系科目選択とし、河合はやお氏に憧れて、教育学部で臨床心理学を学ぶことを目指していた高校生が、大学現役合格の夢破れた。家庭事情や兄のすすめもあって、心理学に治療介入も加えられる精神科医となることを目的に医学部を志望しなおし、2年の大学受験浪人の後に地元の公立医学部に入った。

こうした屈託の20歳から、20年後の40歳の今の私を見ると、さまざまな場や時を過ごしてきた。時々に、目的が明確でないときもあったと思うし、無為にフランス映画や香港映画ばっかり見ていた時もあるわけだけれど、人の死にざまとか死にざまにつながる心のうごめきのようなものには、ずっと興味がつづいていることに気づく。麻酔科医をしていても、術前・術後のケアの患者評価、緩和ケアの場でのひとびとのこころの問題、集中治療の場でも、終末期における家族のこころの問題、そういうことは、ずっと私にとって、テーマになっている。

山みちをあゆむなかで、峠を越えて坂を下ると木立の合間から人里が見え出すと、ふと思う。この村に一時身を置かせていただこうかと。特に目的もない。ただ、お経をよんですごすだけだ。そして、その村にも人々の生き死にがある。その村で、さて私に何ができるだろうか、と思うことが不遜だと思うこと、これが、アジアだ。


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by khosok | 2017-03-16 11:19 | Comments(0)