憲法9条の先駆的意義か

日本弁護士連合会2008年の宣言を読みました。憲法9条の先駆的意義というのが、理解されます。その後同会は、2013年5月に集団的自衛権についてさらに詳しい説明を施しています。7月16日には、理事会決議というのを出して、危機的状況を憂いています。その他関連し文書は多数、同サイト内にある。

憲法9条の先駆的意義とは、全世界が軍縮しよう、その先駆けを日本がします、日本は憲法に、極端な軍縮、つまり、軍隊を持たないというのですから、憲法違反の軍隊は、可及的早期に捨てるべきです、というものである。僕も、これには賛成です。全世界みんなが、「水鉄砲」以外の兵器で戦争してはいけないというルールにしたらいいんです。きっと楽しいです。サイバー攻撃もだめ、宇宙も使っていいけど、水鉄砲だけ。違反したら、水鉄砲で、お仕置きです。

ただ、よく分からない部分も残る。現実と理想の乖離だ。

・・・まだ、僕の理解が、法曹界のえらいさんたちのところに到達していないのだろう。戦争を放棄しつつ、主権国家として、国民を守れる状態をどうしたら実現できるのか?四面楚歌で軍隊を持たず、ただ、相手は攻めてこないと唄えば、それで解決するのか?現実には、米軍が自衛隊が海保が国を守っているのだ。これをなくすのは、どのみち段階的にせざるをえないはずだ。これは、ノーベル賞をもらうくらいの政治的偉業のはずだけれど。

さらにいうなら、日本が先駆けに行いうる平和主義を、今までの70年間、法曹界は、この2015年までに、どこまで実現できたのか?そして、日本が、どのように先陣を切って何があと10年、20年でできると想定しているのか?

6月18日の意見書は、むつかしいが、問題点がそれなりに焦点を絞って述べられている。ここで、「存立危機事態」とか、「重要影響事態」とか、殆ど、具体的には語れない事柄であることがよく分かる。新3要件についても、紙面の割に、それ程具体的に突き詰めて考えられていない。そもそも、新3要件は、日本国として手の内を内輪で明かしあうものではない。

世界恒久の平和は、法曹界よりも政治家がどちらかというとより実現しやすい立場にいると思うのは、やはり、僕の理解がまだ足りないのだろうか・・・
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# by khosok | 2015-07-20 06:05 | Comments(0)

戦後70年

政府の発表した7月1日付の閣議決定を読んでみた。英文およびそれ以外の文書は以下;
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/housei_seibi.html
当然、詳しい内容まで、完全に理解しているわけでないが、日本国を取り巻く国際情勢と安全保障に関して、日本政府が何をしてきたのか、そしてこれからどうするのかが、(当然だけれど!)うまくまとめられている。

日本国憲法は、昭和46年11月3日に公布され、その後一文字も変わることなく今に至っている。その中の一条、憲法9条の解釈を示した昭和47年の答弁以降、日本は自衛のための世界標準以上の軍隊を持った。天皇とマッカーサーが横に並んで写真を撮ったのが、昭和45年9月。東京にマッカーサーがいて、熱心な赤狩りが行われていた、昭和47年、毛沢東は建国した。マッカーサーが日本を離れるのは、朝鮮戦争が始まった昭和50年、その時、吉田茂が朝鮮戦争に突入していくアメリカ等連合国との間で取り決めた、自衛隊再編成と安保の歴史である。安保闘争とは何だったのか?日本国とは何なのか?55年体制から中曽根の時代、そして、橋本―小泉につながる構造改革、そして、今の安倍さんの時代である。いい國つくろう!僕もそう思う。

今まで学んできて、一番わかりやすかった例え話は、これだ;自分の子供を守る権利を持たない親はいません。子供に戦争してほしくない、自分も戦争したくない、でも、最後に戦争しないと守れないなら、戦争するしかないということを心のどこかで持っている親は違う。子供を守るのに、大金を払って用心棒に子供を見てもらう。いつ逃げるが分からない用心棒でさえそれに脅されれば、子供を守るためにいうことを聞かざるをえない。きけわだつみの声を読めば、お国のため、わが子わが家族のために、皆戦争に行ったと分かる、明治の建国精神は生きていた。戦後民主主義教育で、国民の国に対する認識に修正が加わった。少なくとも戦後70年の歴史を見る限り、本気で戦争を放棄したら、国民国家は存続できそうにない、国際社会はそんなにお気楽ではない。そもそも国際社会では、一国の戦争したくないというわがままが通るほど単純ではない。日本の国土が分断されたり、他の国の完全な支配下に置かれてないのには、理由があるはずだ。

基本的に、戦争できる法を整備することに反対ではない。未然の万全の法整備と実際に能動的に侵略戦争することはイコールではない。ただ、現状ではアメリカ圏内での自主的な隷属状態を抜けるつもりも準備もできていない日本国政府は、アメリカの戦争に巻き込まれても仕方はない。一方で、アジアの紛争には強い抑止力になるし、将来も描きやすい。

今回の閣議文書には当然触れられていないが、日本はアメリカに次ぐ性能の偵察衛星を持っている。僕は、未然の策を愚とは思わない。

自衛隊員の服務宣誓にはこうある;
私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。
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# by khosok | 2015-07-17 15:11 | Comments(0)

娘の幼稚園の大親友の台湾人家族らと食事した。中華民国の人は、PRChinaとは別のTaiwanと表紙に明示されたパスポートを持っている、ヨーロッパ旅行は、メインランドの人民とは比べられないほど安易に行える。長期滞在にも特に問題が発生しない。

中華民国と中華人民共和国の区別は、1949年の毛沢東による建国の時期に生じるわけだけれど、その後70年弱にわたって複雑な区別が行われてきた。72年の田中角栄の日中国交正常化で、言葉の上では日本と中華民国の間の国交は断絶されているが、現在もなお、日本とアメリカは、実質的に国と同等の扱いをしている。日本パスポート保有者は、台湾への90日のVISAなし旅行が可能だし、ワーホリだってある。

その4歳の娘を持つ台湾人のお母さんは、Mandarinしか話せないらしい。両親が話すTaiwaneseは30%しか理解できず、家庭内ではMandarinで会話するらしい。台北の学校教育では、80年代までMandarinしか教えなかった上に、台湾語を話すと叱られたことが原因だと。台湾の言葉は、南方系で北京語とは大分違うらしいのだが、30代の人が両方を話せないということを聞いて少しショックだった。ちなみにマイノリティーは2%とウィキに書いてあった、意外に少ない。

オフレコ内容だが、彼女はメインランドの人と台湾人は、見た目で分かると言った。中国人と呼称されることを嫌っていた。台湾人の民族構成は日本以上に複雑なのだが、国民性という意味でのappearanceの違いが見て取れるということだろう。

TaiwaneseとChineseという言葉は、政治的な問題が大きく、複雑だが、現代社会に置いては、もっと正確に使わないといけないということを改めて学ばされた。私が数年前から乗り換えて使っているACERのパソコンは、中国製だとは言わない方がいいかもしれない。
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# by khosok | 2015-07-13 18:15 | Comments(0)

経済に必要なのは道徳

中野剛志氏の「保守とは何だろうか」「資本主義の預言者たち」を読んだ。かなり面白かった。経済や政治について、すこしずつ知識が増えてきた。この2書で、新自由主義に異議を唱える人はすでに19世紀始めからおり、その人たちのいわば予言の通りに、経済世界は不安定さを増している。

そして経済的な利益を追求するがために、労働者が苦しい立場に追い込まれていく。自由経済では、利益を追求すると、労働者を軽んじてしまう。軽い労働者を雇い、重要な作業を器機に託しだす。労働者の利益は短期的なものとなり、減る。だから、よりよい社会を継続するには、結局、優れた道徳が必要だというあたりが、この中野氏の主張のようで、驚く。松下幸之助の世界だが、勤労者や技術者を手厚く保護をする経営者は、きっと率直にすばらしい。また、中野氏は食料の生産は軍需品という。食料依存により輸入国の奴隷となるとの論点も、的を射ているように感じる。金と食べ物は同価になりえない。有能な労働者は金と等価では扱えない。

さて、医師や看護師等の病院内労働者は、どうか? 彼らはかなり国に守られている。診療報酬制度により、医者、看護師は、過度な競争にさらされることなく、安定した賃金が保障されている。自由な職場選択が許され、資格制度によって再就職や転属地での再雇用にも利便性が高い。かなり手厚く守られているはずだが、世の常で、中にいると文句ばかり言っている。事業者が、昭和50年代の過酷な労働条件を医師や看護師に未だ強い続けるのは、職種として守られているという話とは別の問題だ。ここ日本の病院内労働者に新自由主義に準じた自由経済の仕組みが導入されたら、まず間違いなく現場は、今以上に荒廃し、死亡率の上昇などの目に見える結果となって返ってくるだろう。持ちこたえさせているのは、現場の個人個人なのだ。病院内労働者は、命に係わるという自負も手伝って、個人個人の道徳が、一部を除いて荒廃していない。これが救いなのだ。

まあ、僕は技術者、そしてサービスを中心とする医師という職種だ。先端科学にある程度の理解がある方が、新しい医療知識や技術を吸収しやすいため、現在は、無給で研究者の見習いをして勉強しているが、これもあと2か月で終わります。そして今後は研究者で食っていくつもりはない。医師として生計を立てていく。自分のできる作業によって、それに見合った金銭がいただける、今はそれができるのだから僕はこれで十分だ。
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# by khosok | 2015-07-11 23:59 | Comments(0)

遠くの狼

僕が今覚えているのは、「とおくのおおきなこおりのうえをおおきなおおかみほおかぶり」ですが、他にもあるらしい。

例外は、TOSSというサイトでは、22(21?)個あると。

 おおかみ  おおせ  おおやけ  こおり  こおろぎ  ほお 
 ほおづき  ほのお  とお(十) いきどおる おおう 
 しおおせる とおる  とどこおる もよおす
 いとおしい おおい  おおきい  とおい  おおむね おおよそ
 (こおる)あるいは(ほおかぶり)をいれれば、22個だが。

文部省の「「現代仮名遣い」に関する内閣告示及び内閣訓令について」に詳しい。

教育科学研究会の須田清氏が次の文を作ったらしい。
遠くの(とおくの)大きな(おおきな)氷の上を(こおり)多くの(おおくの)狼(おおかみ)十ずつ(とお)通った(とおった)

30年前から、教育も進んでいるよう。
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# by khosok | 2015-07-07 00:47 | Comments(0)

テロに巻き込まれるのは

自己責任だと、この数年のブリュッセル暮らしで思うようになった。巻き込まれたことのある人には、不謹慎かもしれない。失われた命に対しては悲しい。しかし、人のせいにはできない、自分のことだ。

ICEにせよ、タリスにせよ、荷物検査なんてない。もし高速鉄道に荷物検査があるなら、ユーロスターのように、出発の1時間前に、長蛇の列に並び、待合室に詰め込まれて、不便極まりない。「えくぜぷてぃぶ」何とかとで、横をすっとすり抜けていく、金持ちや特権階級者をうらやみながら。

「線路に置き石」はしてはいけないと、親に言われた。家族が破産するから。ユーロスターの線路は、柵でおおわれて入れないが、全路線ではないと思う。日本の新幹線も、かなり強固に、置石ができないようになっていると思う。でも、過去に置石の事例はあったと思う。1万円払って、車内で、「いらんこと」するのは、置石のポイントを探すよりは、一般人には簡単だ。

ブリュッセル市を走る自分が毎日のっているメトロは、ここ1年で1度テロの標的になったことがある。危険物の構内への持ち込みだった。それが実際まき散らされたのが、地下鉄サリンだ。僕の乗る車両で喧嘩が起こったことは2回ある。夜中のメトロは、今でもなんとなく緊張する。緊張していたら直感がはたらいて、ことを未然に防げるわけではないし、逆に、なんとなく不安であっても、何も起こらないことも多い。運よく、今まで、我々家族は、特に身に迫った危険に出会わずに済んだ。

EU本部で重要な会議があるとき、その下を走るメトロが、最寄り駅(しゅまん)をスキップする。国会議事堂前駅を東京メトロが止まらないのと同じ状況だ。EUやその周辺で働く人には不便極まりないだろうが、一駅歩くから健康にはよい。スキップする理由はきちんとは知らないが、きっと、なにかの混乱を避けたいのだろう。アメリカ大統領が街を訪問する時の警備は、住民生活を制限する。警備による渋滞や停滞に巻き込まれないように生活することが、単に、生きるすべだ。

テロリストは、ただ、社会の未然の策に対して、その逆を考え抜け穴を突いて、反社会的行為をするだけだ。いくらでも抜け穴はあるのだから、もうこれ以上煩雑にしてほしくない。たとえば、メトロのチケットを買うのに、身分証を提示しないといけないとか、そういうことはやめてほしい。なぜなら、僕のチケットで空いたゲートに、すっと後ろから近づいてくぐっていくにーちゃんが、実際いるのだから。

自分はただ危険に巻き込まれたくない。ただ、それだけだ。危険を未然に知る嗅覚、それから遠ざかって生きるすべは、これからも鍛えていかないといけないと思う。
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# by khosok | 2015-06-30 23:46 | Comments(0)

今学期も終わりです

図書館がすっからかんになりました。英語の夜のクラスが終わってcertificateをくれました。娘の学校も夏休みに入りました。なにより、ここ数週間なかなかまとめきれずに苦しんでいた留学体験記の依頼原稿から抜け出す決心をしました。

「日本を飛び出し、ベルギーで2年半、動物実験に専念しました。期待していた短期的な成果は得られませんでしたが、ここでなければ知りえない多様な価値観やものの見方を得ました。特に、著名人の近くでその息遣いを感じながら過ごせたことは貴重でした。この経験が今すぐ活かせるとの実感はありませんが、将来役に立てられればと思います。」

この使い古された「締め」を絞りだすまでが、相当大変でした。実に使い古されていて、没個性である。つまり、ここまで個性を消すのに、相当苦労をしました。

こういうエッセイってのは、相当むつかしい。その時の心理が大分と反映されてしまうからですね。ここを去ることは寂しいわけではないです、後悔ってのもそれほどないです。ただ、完全に気分は盛り下がっています。その鬱屈した気分が原稿に濃厚で吐き出されてしまって、相当うんざりする原稿になっていた。それをできるだけ、真ん中に寄せていく作業が、大変だった。

Steve Jobsの言葉を、復唱しながら;
You can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.

単に、依頼された時期とそれを受けた時期が悪かった。ヨーロッパの夏は、終わりの季節です。
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# by khosok | 2015-06-29 06:26 | Comments(0)

医師の専門医制度改変が、しっくりこない。
とにかく理屈が通っていない。

医師は医師免許を持って患者や社会の健康増進のために仕事をする集団である。医師免許は国の制度で、厚労省が管轄の医師法と医療法で行動が規定される資格である。幾つかの専門医は国の制度だが、それ以外の殆どの専門医というのは、日本の場合、医師が自主的に互助的に作り上げた仕組みだった。自らの研鑽を維持しより高度な医療を提供するためだ。旧来、専門医取得者に対して上乗せ報酬はなかった。それでも多くの医師が自己研鑽の目的で自腹を切って学会に審査料を支払って勉強し、学会も上位の有資格者を使って専門医制度を維持してきた。きわめてプライベートな仕組みだった。医師界の自治が守られていたわけだ。

これを、国家がコントロールするように変わるのだとはじめは思ったのだけれど、機構が管理するらしい。国が機構に下ろす予算ですべてが回るほどではなく機構はある程度の収益を得る必要がある。機構は原則的に医師や病院から徴収した審査費用を財源として運営されるのだ。では、この専門医を取得した医師に、何か法的に有利な点が生じるのかというと、依然明確でない。専門医だから、新たな治療法の開発に特権的な予算が降りるとか、それを推進する実験的な研究ができるとか、あるいは、専門医が報酬の上乗せを受ける(たとえば出世に有利である)とか、そういう規定を僕はしらない。ワインの品評会で入賞したというくらいの意味しか持たないのだ。つまり医療界の自治を守りながら、新しい機構を作って一括管理する、その程度の意味しかない、国はそのコンセプトに多少援助する。そういうことだったのだ。

学会によって専門医資格の取りやすさが違った。60以上もある各種の学会が、それぞれ資格を乱発してきたのだから質に差があって当然だ。今回、それを40程度に減らすことになった。あぶれたが重要な診療単位も多々存在する。横断的に医療を展開している緩和医療もその一つだ。資格が残る医者であっても、新しい専門医制度より得られるメリットが明確でないなら、専門医を必要ないと判断する者が増えて然り。全体として医者の質を落とすことになる。新しい一括管理される資格に、どんなメリットがあるのか、それをまず医師に対して明確に説明してほしい、が今は不透明なままだ。

こういうときこそ、基本を注視すべきだ。医者は生涯勉強を続けなければいけない。このための互助的仕組みは維持したほうがよい。互助とはあくまで助けあい。助けあったものが同じユニフォームや同じ称号やメダルをお互いに与えあっていることに、特に大きな問題はない。互助的にであれ、なんであれ、とにかく安きに流れてしまうところを何とか踏ん張って、生涯学習を続ける仕組み、これを維持できることが大事だ。この専門医制度改革に合わせて、学会も、生涯学習を効率よくまた積極的に促す仕組み作りを再構成するとよりよい将来が見えてくる。
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# by khosok | 2015-06-08 19:16 | Comments(0)

すこし疲れたので、「國破れてマッカーサー(西鋭夫)」を読み始めました。やはり20世紀の日本史はとても面白いし、反戦後民主主義教育論が結局しっくりきていしまうのは、なぜでしょうか。とはいえ、一番愛する作家は、大江健三郎なのですが・・・・

これは、自分の国、自分の属する国家、自分の属する社会を肯定することが、つきつめれば、自分や自分の人生を肯定することになるということでしょうか。間違っていることもあるかもしれない、いや、人は所詮間違いをたくさんおかして、文明と文化を発達させてきたのだ、それでも、自分を信じ、自分の家族を信じ、社会を、国家を信じて、肯定して、そして共に歩もう、そういうことなのかもしれません。

科学や医学を学び、疑うことになれ過ぎました。さらに、21世紀になって情報が信じられなくなったのは、情報公開とインターネットで自由になんの責任もなく多くの人がいい加減なことをたくさん言うから、真実が見えずらくなったのです。情報がなければないほど、迷いは少ない。情報を発信する人は、すべての混乱の一因になっているとの自覚を持つべきなのです。もちろん、このブログもそうです。

ブログに備わっている機能で、このブログがどのような検索ワードによって探し出されているかの集計が見ることができますが、その1番は、つねに、ディプリバンとプロポフォールで、次が、ASA-PSです。僕の過去に書いたこれらの特に前二つの薬剤関連の記事は、削除した方がいいかもしれません。ASA-PSは、未だにそれなりの問題提起になっているー翻訳した人の責任を問うことになっているーので、残してもいいかもしれませんが。

ここベルギーに来てからは、殆ど集中治療や医療のことを書かずに、語学と国(特に日本)のことを書いてきたように思います。海外に暮し、臨床から遠ざかって、時間に余裕があり、語学と日本のことを考えながら過ごした2年間だったということです。

海外に暮し、日本のことが肯定できるようになりました。生まれた京都を離れて、逆に京都の良さをわかった気分に近いです。ここに、愛国という思想のなかに、かすかに見出される、自分を肯定する根拠があるような気がします。
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# by khosok | 2015-05-29 17:12 | Comments(0)

がんばっている人を見ていると、いい加減には、批判したり、賛成したりできない。きちんとわかっていないから、判断しない、そうしないと頑張っている人に失礼だ。

それでも、なんとなくわからないままに乗せられてしまう場合と、よく分からないけど乗らなくていい船には乗らないということの差は、大きい。絶対に乗るべきだと自分で確信できる船なんてふつうはなくて、何事も賛否両論だから、人生、わからないときは、何に賭けるかと言ったら、人に賭ける。北アフリカからイタリアへ難民か何かわからないけどたくさんやってくる。乗せられた船か?自分からどうしても乗りたかった船か?乗らなくてもいいという選択肢はなかったのか?そういう現場の感覚がわからない。でも、信じる(が、まだ国内にいる)支援者のいうことに賭けて、(なけなしの)お金を払って、イタリア行(と言われる)のすしづめの船に乗ったのだ。

僕は、留学した。なんとなく乗せられて留学したのか?留学しなくてもよかったか?自分でこの船は乗るべきだと確信していたか?この現実感覚は、僕と奥さんの秘密だ。どれだけ説明しても、きっと他人には伝えられない。一つだけ言うなら、僕(という賭け事のまったく苦手な人)が、ただ頑張っているという雰囲気だけで自分に賭けたのだ。いい加減には判断はしていない。

選択は、いい加減では失礼だ。特に「頑張っている」という抽象的で目に見えない雰囲気が、選択をやや厳密にさせる。そして、最後は、人に「賭ける」。すべてが矛盾しているが、これが選択だと納得した。
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# by khosok | 2015-05-18 19:51 | Comments(1)