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冬の朝

外気が冷たいことが、身に沁みます。

父が、入院した診療所から市中の総合病院へ転院搬送されたのは、平成ひと桁年の12月で、私はセンター試験と入学試験が近づくにつれて急激に下降していく成績に、絶望感で打ちひしがれて半年以上にわたって神経衰弱のようになっている時期でした。朝いそいそと家を出た母に、びりびりと異変を感じながらも高校に行き、昼前に担任の先生から、昼までの授業が終われば病院に行くように言われ、病院に行きました。帰り道が同方向の友人が途中まで一緒だったような気がします。

間質性肺炎の急性増悪という言葉を、高校3年生の時にすでに理解したかは、今記憶が錯綜していてよくわかりませんが、とにかく父はそういう状態で、低酸素、心肺停止、蘇生後脳症、気管切開、人工呼吸器管理となり、ステロイドの持続静注が行われて6カ月市中病院の呼吸器内科の個室を占拠しました。延命と家族のコーピングについての体験は、その後に強く影響しました。

(父は時に強権を発動する恐怖の存在であって、それ故に父の死は私と母親にとっては抑圧からの解放であって自立的で自由な人生の再生でしたが決してお互いに口にすることはなく、お互いに暗黙のうちにひそかに進行する懐柔作戦のように人生を再生させることが道義との共通理解があったように私には感じられていました。)

河合隼雄さんにあこがれをいだいて臨床心理士になることを夢見ていた私は、大学受験失敗を機に兄のすすめに従って医学生となりました。卒業に際して専門科を麻酔科に決めました。延命とか家族のコーピングについて、緩和ケアの領域で仕事をすることが一つの目的でした。父の死につながるイベントには、蘇生行為や救命処置に関する関心を高めることになり、当時不足が社会的に叫ばれていた救急医になるという選択肢とも迷いがありました。しかし比較的早期に専門的知識を習得して実地で活動可能な麻酔科医として地域医療に貢献する道を選びました。地域医療に貢献するためには、基礎的な集中治療を学んだあとの方がよさそうで、それを短期間行ったあと、京都北部の病院に着任しました。

医療資源について考えるようになりました。医療の最新の情報は速やかに全国へ行き渡ることも目の当たりにしました。一方で、なにか医療の根幹にある課題は、あまり変わっていないような気がしましました。自分ができることは何か、30代の後半、それを探し出してしまって、路頭に迷いましたし、自分には何もできないという気づきでもありました。多くのものを失って、今は再教育を受けさせてもらっています。

最近、ひさしぶりに山に登りました。4時間くらい低山を縦走し、冬の寒さと孤独と土と岩の厳しさと、雲、霧雨、遠くの山、一杯の暖かいコーヒーのありがたさを実感し、すべての心のバランスが崩れました。もう一度考えました。冬の朝、何百回という冬の朝、病院へ向かって出勤しました。何十回という朝、病院で救急車を向かい入れました。同じようなある朝、父は蘇生され転院搬送されました。私の出発点はその冬の朝なのかと思い至り至極悩みの深さに当を得ました。

by khosok | 2017-12-16 11:56 | Trackback | Comments(0)

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