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記憶について

ここ数年で、めっきり写真を撮らなくなった。

写真で記憶が固定化されることを恐れているみたいだ。思い出は、記憶の中で書き換えられていくもの。写真にひもづく思い出も、同様に書きかえられるのだ。そうはいうものの、ここ数年の私は、どちらかというと、思い出をぼんやりとさせておきたい。その時々の様々な思い出をきっちり思い出したくない。記憶を書きかえたり、固定化させることをせずに、ぼんやりと放置しておきたい、そう思っている。

留学先の教授が、あんたの論文去年のたくさん読まれれてるランキングで上位だよ、という雑誌社からの自動送信のメールをFWして、Congratulations ! と。その論文を発刊するまでの経緯にはいろいろあった。記念写真みたいにお化粧してファイリングしたくない。記憶が書きかえられて、よいおもいでみたく変色していくことを、良しとしない。思い出の変質は、害だ。

高校卒業後は臨床心理士になることを志望していた私は、1年の浪人後に京都の医科大を受験して不合格となり、母といさかいを起こして兄の彼女の家に一泊した。厳格な父が亡くなる前後から、不安定だった私はさらに不安定な数年に突入していった。その頃書き残していたメモは、その後10年程保管し、二度と見ることはせずに、さまざまな写真と共に、繰り返される引っ越しの間に捨てた。

過去に味わったさまざまな身体感覚は、再会の時、きっちり体が反応を示す。

覚えている身体感覚をスムーズに取り戻すために、余分な記憶、変質した思い出は不要だ。青いPEACEのこってりとしたヤニの匂いを中指にさせて、見よう見まねに般若心経を声に出してよんでいたハタチの頃の身体感覚を、ずっと思い出すことを拒みながら、しかし忘れられないという背反を、ずっと忘れようとして生きてきた。

それが、大人になることかもしれないと思っていた。

ここ数年、自ら望んでのことだが、環境が安定しない。さらに私自体も安定しないやじろべいであるが、奥さんや家族その他の人たちの助けもあって、こころはうまくバランスを取っている。しかし、やじろべいはとっても狭い柱の上にあって、いつ落ちてもおかしくはないし、また、次の柱に移る宿命のようなものを背負いながら、肩をゆすって、ある。

やじろべいの動く断片を、写真で収めても、動いていることはとらえられないばかりか、あたかも、安定してあるような変質の仕方をして、記憶を書きかえてしまう恐れがある。写真が、怖い。

書店で、山口瞳の「血族」が、目にとまった。えぶりまん氏それぞれに過去がある。20年前、浪人中に読んで泣いた。そして、この本は私というやじろべいの芯を太くした。今読みだして、ふたたび身体が反応した。震える。読了が楽しみだ。

by khosok | 2016-03-12 22:39 | Trackback | Comments(0)

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