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くちなしと死刑の暗喩

辺見庸さんか書かれた論説が中国新聞に載っていた。「この国では祝祭にも似て」

ゆきつけのカフェの横にクチナシの生け垣がある・・・から始まるこの論説で、死刑制度の廃止ないし死刑執行の凍結が100か国をこえるのに、なぜ日本は、と書かれている、このくにでは死刑執行があたかも”祝祭”のようになってきてはいないか、と
。嗚呼。

私にとって、くちなしは、正月に母親が作る栗きんとんの色付けの役を果たすものだが、この辺見庸の論説では、くちなしの白い花が垂直に落ちてにおいが地に乱れ散るとして、最後は、ジャズ歌手のビリーホリデーまでつらなって、相当に深みがあった。

ご自身のブログに、同じものが信濃毎日新聞が掲載したと書かれている。
http://yo-hemmi.net/
http://yohemmi.up.seesaa.net/image/E38280E38194E38184E5A48FE38080E4BFA1E6BF83E6AF8EE697A5.pdf

医療の仕事をさせてもらっていて、死をみつめ、死をあつかう。戦争という歴史もできる限り勉強するようにしている。いろいろな状況があるのだろうが、やはり、ひとがひとを死体化させることには強烈な苦しみを感じる。

殺人者には常態こえた精神的エネルギーが必要というのは、本当だろうか。痛みを共感できないことが殺人者の条件なのだろうか。共同幻想は、どのムラでも個を圧倒するのだろうか。久坂部羊さんの小説を思い出した。




by khosok | 2018-07-29 17:10 | Trackback | Comments(0)

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